わたしの気持ち2016

発達障害でも統合失調症でも、本人に病識があって法令順守が身に付いているなら悩むだけ無駄なんだねー。産まれてきたのは己のせいじゃないしー、あー悩んで病んで無駄だったわ。

わたしがブログを書くことと、挨拶を受け入れられるようになったこと。

ちょっと変な話をすると
「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」
これに「明けましておめでとうございます」
とかも含めて、今まで挨拶をした事が無かった。

明けましておめでとうは断固拒否していた。
おめでとうの意味がわからないし
わたしは全く何時でも全てに対しておめでたくなんかないし、死にたいし。

人に合わせて言うならなにも言わない方がマシ。
ただ、そうすると挨拶もしないのとか思われるから、定型の人は言うだろうし
だから定型の人は、普通に意識せずに習慣として発するのだろうけど。
それは、伝えてコミニュケーションをとらなければ、人との繋がりがなにも始まらないことを
幼い頃から普通に体験しているからだと確信している。

挨拶は常識と頭ではわかっていても
幼い頃に暴力を奮われた人に対して
まるで何事もなかったように挨拶なんてできないし
暴力に対して未だに謝られたことはなく
逆に
「いつまで覚えているの」
なんて言われて傷つく、というより悔しい。

そのお陰で人を信用しなくなり
挨拶をする価値も理由もわからずに
ただただ
ADHDアスペルガーサンドバッグになっていた
幼い自分自身が哀れで
それプラス自分自身が自閉症って気づいていたけど
誰からも何処からも援助なんてない。
だって親が発達だから、親に人と人とのつながりがないし(あったとすれば辛うじて親戚かな。)誰も何も気づかず、何も言えないし

何か周りからわたしに対してのアクションがあっても、親は受け入れないだろうし。
PTAにも何も興味がないくせに
着飾ることのできる授業参観には
恐るべしハイブランドで現れて
周囲との違和感を高めていく。

それに気づかないどころか
普通の親気取り。
一目瞭然の地雷人物。

だからわたしは生きるのを諦めていたし
実際登校拒否をしても心療内科にすら
連れて行っては貰えなかった。
(貧乏だからではない。歯並びを治すためにはお金を使ったから。あいつらは自分自身と向き合わないから、「頭が痛いから学校休む」が続けば外科に行かされる。本能で心療内科を避けていた、というか明らかに避けていた。わたしが糖質の陽性になって、自ら医師のもとに行きたいと言った時には折れたが、明らかにわたしの頭が狂っているから親の立場で連れてきたくらいな気持ちだと思う。)

唯一の生きる価値を感じた
心の拠り所を失った時に糖質になったんだなーと。
医者にはそう思わせることもできるしね。
発祥の直接の原因は死別だけれど

死別は悲しいことだけれど
それ以前のストレスの積み重ねがなければ
糖質にはならないと思うよ。
発達か定型かは別として。

あっちの世界、糖質の世界は……
余計にストレスだらけで、円形脱毛になるくらい悲惨な精神状態だから。

ソーシャルワーカーさんの言った言葉も忘れない。
「暴れたら(糖質で)警察を呼んで下さい。」
これは……まあ殺人事件に発展させないためだろうけど失礼だよね……。

じゃあ、幼い頃に警察を呼べば
良かったんだね、本当に。
わたしの顔も相当腫れていただろうし。 

顔が腫れている時はきっと外には出ていないんだろうな。それはあまり覚えてないや。
満足そうにわたしを見おろす
女親の顔なら記憶に貼りついているのに。


話がそれました。
挨拶の話に戻していきますね。

わたしは、たぶん幼い頃に暴力が無く
ごく普通に一般的な愛情を持った親の元に生まれていたら
違う人生だったと思う。

なぜそう思うかというと
好きな人ができた時に
挨拶をする意味が理解できたから。
なぜ好きな人ができたのかと言えば
糖質になった時に、初めて体外人格と記憶の共有ができて
糖質の時の体外人格は
普段の自閉症モードでなく、ラリった綾波レイみたいな感じだから(?)
つまり心がポカポカしたりするという……。

糖質になった時点で、捩れながらも(自閉症でありながらも)対外人格と一体感が出来たから
わたしにも対外人格の「人を好きになる」気持ちが理解できて

ただ好きになる、愛するって言うことで
挨拶や定型習慣を、初めて意味を持って
(感情を持って)自分から発することができたんだ。

相手の愛情は嘘だとしても
ほんの少しの「本当」が入っていてくれたから
それを理解できて

つまり産みの親は、ほんの少しも、わたしに(他人にも)愛情を示してはくれなかったんだ。
たぶん知らないから示せないんだと思うし、
おそらく自分自身が何なのかもわからないまま
呆けて死んでいくのだと思う。


自分自身が発達障害であっても
自覚のない発達障害に潰された人生(結果的に)は
あきらめるしかなくて
だからわたしは、生きている限り
あれらに会うことはないと思うし、あれらも
利用価値のないわたしには会う必要性を感じていないのがわかる。
自覚のない発達は人じゃない。
それだって、いちがいにその人達のせいだけではないのだろうけど

わたしが失ってきた子供時代は戻らないし
嫌うことはあっても
好きになんかなれないな。

失った時間は失われたまま。
負の感情だけでは信頼関係も、親子関係も育まれない。

だからわたしには親がいない。(と思っている)

ただ存在しないならまだいい。
暴力をふるわれないし、嫌な事にも巻き込まれないから。
ただ存在しなくて自身が発達でなかったら
今のわたしにはなっていなかっただろうけど

こんな存在になってしまったのが偶然わたしであっただけで
そんなことをグチグチ考えても仕方ない。


それより、わたしは謝らないといけない人がいて
だけど連絡しないのが一番の御詫びになるんじゃないかと思いながらも
やっぱり自身がそうされたら嫌だから
ただ謝りたい。

他人の気持ちになって、考えることを偶然にも教えてくれた人だから。
わたしに届く感情を、初めてくれた人だから。

もしわたしが謝れなくても
またいつか何かの偶然で
これを見ていてくれるかも知れないから。

※体外人格については別な記事に書いてあります。
専門用語なら解離性障害




2015.02

浮遊中。

最初に顔を見た時に
私は何も感じなかった(気がする)
なんだかガッカリされた様な気すら覚えた。
いつもの通り愛想も愛嬌もない私は。

その人は
ただ少しだけ他の人と違う空気があって


どうして瓶底マルメガネをかけているのかなあ…。