わたしの気持ち2016

発達障害でも統合失調症でも、本人に病識があって法令順守が身に付いているなら悩むだけ無駄なんだねー。産まれてきたのは己のせいじゃないしー、あー悩んで病んで無駄だったわ。

ファンタジーからリアルに。色彩を持たない 多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹の作品が
どのような評価を受けているのかは、興味は特にないしわからないです。
わたしはわたしなりに読むだけ
読み方が間違っていても
勘違いだとしても……。

ただ
「色彩を持たない
多崎つくると、彼の巡礼の年」

という作品は
1Q84
海辺のカフカ
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
羊をめぐる冒険
等の作品と違い、ファンタジーの要素が無く
まるで今までの作品の答え合わせのような
設定と内容になっていると思いました。

今までの作品というか、
特に上記に挙げた4作品には
ファンタジーに紛れるように、
現実(いるべき世界)と非現実(いてはいけない世界)
に主人公は紛れ込みます。
まるで、浦島太郎みたいに。

わたしなりに解釈したら、浦島太郎ですら
とんでもなく「自閉症の人の人生そのもの」
自己に引きこもった末に何も得ることのできなかった、世の中の敗北者(?)そのものになってしまうのですが……。

浦島太郎みたいに、取り返しのつかないことにはなってはいませんが
ファンタジーと現実を行ったり来たりする
作品が多い村上春樹作品の中で

色彩を持たない
多崎つくると、彼の巡礼の年
は、主人公はファンタジーに入ることなく
ずうっと現実の世界にいます。

わたしにとってそれは
「ノルゥエーの森」(現実)
から始まって
紆余曲折の後に
「色彩を持たない
多崎つくると、彼の巡礼の年」(現実)
で、初めて自らの意思で地に足をつけるように
生きようとするまでの
自閉症のゆっくりとした成長記録だと思っています。

「ゆっくりと」と書きましたが
実際には全くゆっくりとはしていません。
それどころか現実世界からは置いてきぼり状態を感じています。
小説は飄々と淡々と書かれていますが
主人公は精神的には
相当辛い目にあっています。

今までの作品の答え合わせと書いた理由は、
ファンタジーを排除したことではっきりしたと思えます。
作品は主人公の
「死にたかった」気持ちから始まります。
正確には、死にたいけど死に至るきっかけがなかった事とその理由から始まります

作品のタイトル通り
つくるが巡礼に行くことになる仲間達
との出会いが「不登校児」を対象としたボランティアであることや


つくるが作中で
「普段意識することはないのだが、つくるの体にはひどく繊細な感覚を持つ箇所がひとつある。それは背中のどこかに存在している。自分では手の届かない柔らかく微妙な部分で、普段は何かに覆われ、外からは見えないようになっている。しかしまったく予期していないときに、ふとした加減でその箇所が露出し、誰かの指先で押さえられる。
すると彼の内部でなにかが作動を始め、
特別な物質が体内に分泌される。
その物質は血液に混じり、体の隅々にまで送り届けられる。
そこで生み出される刺激の感覚は、肉体的な物であると同時に
心象的なものでもある。
最初に沙羅に出会ったとき、どこかから延びてきた匿名の指先によって、その背中のスイッチがしっかり押し込まれた感触があった。」

一部割愛します

「つくるはメールを送り、彼女を食事に誘った。その感触と意味を確かめるために。」

……定型発達の人なら終始リアルタイムに感情を
味わっているだろうけれど
自閉症はスイッチが入らなければ
なかなかリアルタイムに感情を表せません。

そして感情には馴れていないので
多崎つくる(36)は
沙羅に一目惚れしたその意味が分からず
沙羅を食事に誘います。

また、多崎つくるは「鉄道」や「駅」その周辺の
システムが好きです……。
この鉄道好きは自閉症にありがちな特徴として
あげられますが
ほぼ間違いなく時間通りに整然と運行する
鉄道は、色鮮やかに移り変わる世界と反対に
心が休まるのかもしれません。

わたしは別に鉄道は好きではないので臆測に過ぎませんが……。
鉄道が時間通りに来ない国の自閉症者は
違う物に引かれるのかもしれません。
それも少し興味があります。

わたし自身は鉄道より猫に惹かれます。動物は好きですし花も好きです。

話がそれましたが
つくるは高校時代にボランティアに参加したのがきっかけで
アカ、アオ、クロ、シロの
何にもかえがたい友達と出会い
友情を育み共有感を分かち合います。

けれど、シロは、つくると似ていた。

シロはつくるが名古屋を後にして
東京の大学に行ってしまうことが
仲間の誰よりも辛かったのだと思います。

そのシロは、精神を病んでしまうような
出来事があり
いつの間にか
つくるはその出来事の理由になっていて
大切な仲間から疎外されます。
のちにシロはなぜか静岡(地元でない)に住むのですが
それについても
考えさせられます。
ちなみにシロの実家は産婦人科医です。

ノルゥエーの森~色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
までが
わたしにとって一つの物語でした。

わたしも、つくると似ている。
恋愛感情のスイッチが入るのが遅過ぎました……。
人生全てにおいて感情のやり取りが遅いのですが……

わたしもつくるも、色彩を(感情を)持って地に足をつけることが出来るのだろうか

わたしはできると信じたい。

1Q84で、えだまめが
「遺伝子だけが正しいとは限らないのではないかと」
と言ったように。
ただ彼女は妊娠しているので、もっと深い
意味が込められているのかもしれません。

とにかく
自閉症スペクトラムと、そこに関連しがちな児童虐待問題」をテーマに
自閉症スペクトラム視点で小説を書いた、そういう風に思っています。

あれ?やっぱり気になります。
他の人はどのように感じているのだろうって……。

ちょっとアマゾンのレビューをみたら
ふざけすぎたレビューがあったり、人それぞれでした……。


ノルゥエーの森では
ただ混沌の中に置き去りにされた
自閉症スペクトラムの青年が

色彩を持たない 多崎つくると、彼の巡礼の年で
拙いながらも、自らの意思をコントロールし
結婚という節目に取り組むまでに成長した。

そんな流れを感じます。
いつも同じような小説というレビューを
読みましたが
テーマに一貫性があり
それを純粋に書き続けただけだと思います。

小説として退化したという感想も読みましたが
退化でなく、やっと完結に近づいたという気持ちになりました。

答えはでないし出してしまうのは難しい
ので、個人的には完結と捉えてもよいのだと思います。

外からは見えない障害、自閉症スペクトラム
障害者本人の視点で書いたような
作品だと思います。

しかし……ラジオ体操
そう、ラジオ体操
障害者支援制度の学校プログラムに
ラジオ体操を発見しました(ネットのサイトより)
まるで小学生の夏休みです。

だから、……だからノルゥエーの森では
主人公と同じ寮で同室の「特攻隊」みたいな人は笑われるんです!
もし癖になって一生ラジオ体操する人を
生産してしまったら、迷惑でしょう?
わたしはラジオ体操が嫌いです。

嫌いですが稀に工場ではラジオ体操がある
所があったりしますが
肉体労働なので事故を防ぐための柔軟体操というところなのかと思います。
そう納得できるし
賃金貰ってるならラジオ体操も勿論します。

無意味なラジオ体操は恥ずかしのは私だけでしょうか……
それともその体操は、障害者が工場勤務になった時の為にしなければならないのでしょうか?

特攻隊……あまりに強烈なキャラだったせいでしょうか
「ノルゥエーの森」読了後十数年経ちましたが
さらっと思い出せたことに驚きました。
特攻隊……。愛すべきいいキャラでした。